五加の由来


 五加村発足に至るまでの各村は、それぞれの歴史と文化をもち、独立してきた。上徳間と千本柳とは明治5年にすでに合併、明治14年に再び分村し、「千本柳村」あるいは「黒彦村」と称した時代があり、内川を含めた3村が協力して聡達学校を創設した経緯をもっていた。これに対し、小船山村と中村の2村は、「向八幡村」と称し、明治7年に埴科郡に所属替えされるまでは更級郡に属していた経緯をもつ村であった。この5ヵ村が、当時としては近隣町村の規模をしのぐ大規模合併に踏み切ったもので、各村が地形的に隣接していたとはいえ、先人の勇断がここに偲ばれる。それだけに、郡内では、松代・坂城・屋代の町制施行地に次いで、村としては最大の規模と肥沃な土地に恵まれた屈指の資力を有する村となった。


「五加村」の自然と産業
 この五加村は、西に冠着山を、東に名月の鏡台山と戦国武将村上義清の城趾葛尾山を、北に飯綱・戸隠の連山を遠望する善光寺平の南端に位置し、四囲の自然が詩情豊かに映し出す四季はそれぞれに美しい。
 村の西側を流れる母なる千曲川に沿って、上徳間・千本柳・小船山・中村と縦に連なり、内川だけは東山沿いにはしる北国街道に接していたが、各区とも、古来千曲川がもたらす堆積土砂による肥沃な土地に恵まれ、良質な米作地帯としての歴史は長い。特に昔から養蚕とともに蚕種製造が盛んで、大正時代には80軒をこえる製造業者を有したほどであった。


千曲川と「五加村」の村民性
 大正11年の千曲川堤防着工まで、母なる流れの千曲川は、ひとたび降雨が続くと氾濫し、五加村の私財も田畑も家族までも奪い去る悪魔と化した。その回数は、慶長年間より記録に残るものだけでも50数回を数え、人々は水との長い戦いと、これに秘められたエレジーの繰り返す運命を背負いつつ、その都度立ち直ってきた。それだけに不屈の精神は「五加魂」となり、質実剛健の気概は、住民の血の中に脈々と生き続けている。


「五加村」の文化
 この地の文化は、江戸時代から明治維新にかけて、内川が僅かに接する北国街道と、他の4村を串さすように貫いていた枝街道の八幡街道によってもたらされたものの、その影響力は少なく、むしろこの地に生まれ、この地に育った土臭い独特の文化が、人々に豊かな情操を育み、人情細やかな伝統を築き上げてきた。村内各所に筆塚・句碑・頌徳碑が多いのはその証左である。
 明治21年信越線の開通により、これらの街道は疲弊し、地形的にも文明からいっそう遠ざかった感はあったが、農村としての営みはずっと続られ、大正から昭和初期にかけての大恐慌も、戦中・戦後の危機も乗り越え、、常に郡内では優位な位置を確保してきた。

村から町へ そして市へ
 昭和30年、国の方針に従って、五加村・旧戸倉町・更級村との1町2村の合併が実現し、ますます発展への道が開けたのであったが、このとき民意の及ぶに至らず、中村は分村し、更埴市と合併した。
 新制戸倉町の発足後は、我が国の高度成長の波に乗って、発展をとげて現在に至ったものの、昭和30年代までは観光戸倉町の裏面にあたる農業地帯としての過疎化現象が現れ、、学校の生徒数が減少傾向に向かいつつあった。昭和40年代に入ると、市街地に接した上徳間、・内川あたりから急速に都市化が進み、ベッドタウン化は千本柳・小船山にも及んできた。そして、農業の不振は工業化への道を早め、農業人口は急速に工業へ流れ、専業農家はかろうじて30戸を数えるほどに激減した。
 特に上徳間・千本柳が境を接する千曲川沿い一帯は、工業化区域の指定を受け、中小工場が移転し、農村として静かなたたずまいを続けてきたこの地区にも、変化の訪れを予感させた。
 そして、昭和51年、五加小学校は創立100周年を迎えた。
 さらに30年の時を重ね、小学校創立130周年を迎えた平成15年9月1日、戸倉町は更埴市・上山田町との1市2町の合併により、千曲市が誕生した。

「五加」の名
 昭和の合併からおよそ50年、「五加」の名称を残すものは、わずかに小学校・郵便局・農業協同組合事業所・警察官駐在所の公的機関のみとなってしまった。もし、今後「五加」の名が消えることがあったとしても、五加の地に根ざした不屈の「五加魂」は子々孫々に受け継がれ、消えることはないであろう。



「五加小学校百年史」(昭和51年5月5日発行)より
編集委員会委員長竹内正一氏執筆「五加の概要」を引用し、
一部編集させていただきました。