ふるさとの宝 |
稲荷山宿<いなりやまじゅく> 中山道の洗馬宿から分かれて、猿ケ馬馬峠を越え、桑原宿、稲荷山宿に入り、篠ノ井追分宿で北国街道とつながるのが北国西往還。 稲荷山宿は善光寺詣での人々が行き交うこの街道の一番の賑わいを見せ、最盛期には旅籠屋(はたごや)が三十軒もありました。幕末から明治にかけては繭(まゆ)、生糸(きいと)の集散場として一台商業地に発展し、今も待ちのあちこちに白壁の土壁づくりの町屋が立ち並び、往時の繁栄ぶりが偲ばれます。 |
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飯綱稲荷神社 <いいづないなりじんじゃ> 五穀豊穣(ごこくほうじょう)と商売繁盛(しょうばいはんじょう)の神として祀られています。 |
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ふるさと漫画館 <ふるさとまんがかん> 蔵造り風の建物の漫画館。 地元出身の政治漫画の第一人者 近藤日出造の作品を中心に展示してあります。 2階はアニメビデオやマンガ本も閲覧でき、治田小学校のみんなもよく利用しています。 |
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龍洞院 <りゅうとういん> 曹洞宗大源派のお寺。はじめ恕仲禅師が小坂の観音堂に開き、龍燈院と称していた。その後兵火にかかったため、永正元年(1504)桑原左近将監が大陽和尚を招いて現在の場所に建立し、龍洞院と改称しました。現在の本堂は安永元年(1772)に再建されたものです。 紅葉の見所と美しい庭園で知られています。 |
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浄光庵<じょうこうあん> 寛永年間、洞春和尚により開基創建されましたが、元禄3年火災のため廃寺となりました。この間、龍洞院の門寺(かどでら)として元町にあったといいます。明和2年(1765年)龍洞院15世梅峰和尚が現在地の地蔵堂により浄光庵を再興しました。 延命地蔵に大日如来も合わせて祀り、お堂は金毘羅山の琴平社の社殿を移築したものです。 |
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象山桑原記念館<ぞうざんくわばらきねんかん> 旧松代藩士関長昭・長尭親子は佐久間象山の門人。関家の武家屋敷であった館内に象山の書状等の作品・遺品を展示しています。記念館に続いて巡検使門・養蚕記念館・新右衛門屋敷が立ち並びます。 庭園に市保存樹木のモウソウチク・コウヤマキがあり、ツツジ・サツキが見事です。 |
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龍王城址<りゅうぐうじょうし> 武田・織田滅亡後の天正11年(1583年)9月、深志の小笠原貞慶は龍王城を襲いましたが、守将寄与の佐衛門は謀をもって小笠原の大軍をうち破っています。 山城としての遺構はないが、自然の要害の上に湧水池がその裏づけになっています。傍にイチイの神木と水神(石祠)が祭られ、干ばつの夏には雨乞いが行われました。 |
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田原神社<たはらじんじゃ> 鎌倉時代、京都の公家藤原親信が土着して大田原を開き、三島大明神を建立しました。のちに大門の伊豆社と大内沢の箱根社の三社を合併して、現在の場所へ鎮座したといいます。 祭神は山の神の大山祇命(おおやまずみのみこと)と、その子どもの木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と鹿葦津姫命(かあしつひめのみこと)です。本殿は拝殿内にあり、神木の欅作りで天保初年(1835年)の建物です。 |
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不動滝<ふどうたき> 源を真陽(しんぎょ)に発し佐野山城址の南麓を流れる滝ノ沢の佐野川ぞいの岩壁にかかる高さ約14メートルの滝です。水量も多く、北に続く岩場や車橋(くるまんばし)の断崖は石英安山岩で、遊離した石英は高温型石英で飴色をしています。 この滝の上、佐野山城址との中間の路傍に自然石の「山の神」が祀られています。 |
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不動滝<ふどうたき> 源を真陽(しんぎょ)に発し佐野山城址の南麓を流れる滝ノ沢の佐野川ぞいの岩壁にかかる高さ約14メートルの滝です。水量も多く、北に続く岩場や車橋(くるまんばし)の断崖は石英安山岩で、遊離した石英は高温型石英で飴色をしています。 この滝の上、佐野山城址との中間の路傍に自然石の「山の神」が祀られています。 |
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地蔵堂<じぞうどう> 稲荷山の学校の始まりが極楽寺、桑原が浄光庵、そして大田原は地蔵堂です。学制領布(明治5年)の翌、明治6年桑原村立明善学校の支校として「大田原支校」が発足しました。授業は明治7年1月28日より地蔵堂で始まりました。本校の明善学校は浄光庵の境内に新築されたものですが、明治34年の火災で焼失し、翌35年に今の桑原保育園付近に校舎を新築しました。一方、地蔵堂は明治42年の分教場の新築まで大田原児童の学校として使われていました。 地蔵堂は、秋葉山南麓に130年の風雪に耐え、今も当時の面影を残しており、地域の人たちからは「お堂」と呼ばれています。地蔵子安地蔵であり、例祭日は11月23日。おじょう夜といって、この日は八幡の清浄院の住職が集まった子どもたちに知恵の団子を投げていた。大戦前はにぎわったといいます。 |
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治田小学校大田原分校跡地<はるたしょうがっこうおおたわらぶんこうあとち> 現在の稲荷山公民館大田原分館及び大田原運動広場がその跡地です。明治42年の校舎新築から昭和49年の治田小学校実質統合までのおよそ65年この場所が分教場(戦後は分校)として続きました。 ※昭和47年、3月までは「桑原小学校大田原分校」という名称でした。 |
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大田原マレットゴルフ場<おおたわらまれっとごるふじょう> 大田原住民の「地域おこし」の願いのもと、1996年(平成8年)に整備され、レストハウスの手打ちそばの味とともに訪れる人々から親しまれています。 |
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