こんじゃくものがたり
水、今昔物語

八幡公民館長(平成7年当時) 町田 進さんの記録

 暦(こよみ)の上ではすでに大寒(だいかん)も過(す)ぎ、あと1週間で立春(りっしゅん)である。それなのに信州(しんしゅう)の山では、雪不足(ゆきぶそく)で悩(なや)んでいるスキー場がある。ご多分(たぶん)にもれず八幡にも雪が降(ふ)らず、ここ2,3日冷(ひ)え込(こ)んだが、日中は春の様な日が続(つづ)いている。
 私(わたし)たちが子どもの頃(ころ)は、寒中(かんちゅう)ともなれば町通りはピッカ、ピッカに凍(こお)りつき、下駄(げた)スケートで夜間滑(すべ)ったことを懐(なつ)かしく思い出される。
 それが今年は、21日の大寒の日に、2センチ程(ほど)の初雪が降(ふ)っただけなのである。16日の夜などは、音をたてて雨が降(ふ)り驚(おどろ)いた。
 畑に行けば、ハコベやその他の雑草(ざっそう)も緑を濃(こ)くして見えるが、気のせいばかりではない。
 今ちょうど剪定(せんてい)作業の真っ最中(まっさいちゅう)であるが、桃(もも)の芽もふくらみをまし、開花時期が早まってしまうのではないか、また、このまま積雪がなければ、田植え時期の水不足(みずぶそく)も心配だと、あらぬことまで考えてしまう。
 普通(ふつう)の年ならば、寒さのさなか、今ごろは、最低(さいてい)気温が連日(れんじつ)氷点下(ひょうてんか)になっていても不思議(ふしぎ)ではない。うっかり水道管を凍(こお)らせ、慌(あわ)てることもある。そんな冬もうその様な暖(あたた)かさである。暖かい時もあり、寒い時もある。振幅(しんぷく)の大きいのが気象現象(きしょうげんしょう)だからこそ、すぐさま「異常(いじょう)」と騒(さわ)ぎたくないが、それにしてもこの気象は、とにかく変である。
 冒頭(ぼうとう)にこの様なことを書いたが、このままの気象で推移(すいい)すれば、飲料水(いんりょうすい)を始め灌漑(かんがい)用水が不足することは目に見えて明らかである。
 我々(われわれ)年代の者からすれば水に対する思い入れは、今の若(わか)い者の考えと大きな格差(かくさ)があるのはやむをえない。八幡の歴史(れきし)は、水との闘(たたか)いの歴史と言っても過言(かごん)ではない。その水の源(みなもと)ともいうべき積雪がゼロなのである。
 八幡小学校の校歌に「泉(いずみ)も古く、七がしら」とうたわれている。古来(こらい)より我(わ)が故郷(ふるさと)八幡の山は、清らかな水が湧(わ)き出(い)ずる泉(いずみ)がな7か所あった。(1)弁天(べんてん)清水、(2)嘉瀝(かれき)清水、これらは大池、長尾根(ながおね)、代を開いた水で水量も多かった。(3)山の神清水で峰(みね)地区を開き、わさび田も泉の下につくられた。(わさび田が今年から復元(ふくげん)される)(4)小滝(こたき)清水は姨捨(おばすて)地区を開き、(5)桜(さくら)清水は量が少ない。(6)郡(こおり)の頭無(かしらな)しは郡地区を開き、わさび田もあった。(7)中原の頭無(かしらな)しは中原区を開き、おばすて正宗(まさむね)はこの水で作られた。これら七頭(なながしら)の場所は、等高線(とうこうせん)600から650米(メートル)の所から湧(わ)き出している。中でも有名(ゆうめい)な桜(さくら)清水は、明治天皇(めいじてんのう)行幸(ぎょうこう)の折(おり)、御膳水(ごぜんすい)として長野市まで樽詰(たるづ)めして運(はこ)んだと言われており、八幡公民館に「此(この)櫻(さくら)清水ハ明治十八年九月九日本縣(ほんけん)長野市へ聖駕(せいが)行幸(ぎょうこう)ノ砌(みぎり)御膳水(ごぜんすい)」長野県知事(ちじ)従(じゅう)四位勲(くん)三等大村清一謹書(きんしょ)の軸(じく)が大切に保存(ほぞん)されている。
 また、郡頭無し(こおりのかしらなし)は、近年(きんねん)評判(ひょうばん)を呼(よ)び、夏季(かき)になると近隣(きんりん)の市町村からタンクを持って、水を汲(く)みに来る人が後をたたない程(ほど)である。
 その様な清水も、里に下り、一旦(いったん)粘土層(ねんどそう)をくぐると、酸性(さんせい)の水になり飲料(いんりょう)に適(てき)さなく、住民(じゅうみん)は水との闘(たたか)いになったのである。
 今を去(さ)る五年前、私が市の文化財(ぶんかざい)調査(ちょうさ)委員をしておった折(おり)、公民館報(こうみんかんぽう)こうしょくに、次の様な一文を掲載(けいさい)させてもらった。
 ”八幡上水道記念碑(ひ)、先人(せんじん)の偉業(いぎょう)に感謝(かんしゃ)”
 1月17日未明(みめい)、兵庫(ひょうご)県南部を襲(おそ)った激震(げきしん)は、死者6千余名(よめい)、家屋(かおく)の倒壊(とうかい)による避難民(ひなんみん)30万人とも言われる人的(じんてき)、物的(ぶってき)の損害(そんがい)を被(こうむ)った。文明の粋(すい)を集めた150万都市も一瞬(いっしゅん)にして崩壊(ほうかい)し、消失(しょうしつ)した。人々は水と食料を求めて行列を作り、火災(かさい)に追いたてられ、その悲惨(ひさん)さは目を覆(おお)うばかりであった。
 翻(ひるがえ)って私たち生活を見たとき、どれだけの人が水の有難(ありがた)さを感じているだろうか、再認識(さいにんしき)をすべきである。
 私たちの住んでいる八幡は、昔から水に苦労(くろう)をした土地である。宮川(八幡宮東側(ひがしがわ))より東側(ひがしがわ)は千曲川の伏流水(ふくりゅうすい)が流れていて良い水が得(え)られたが、町通り西側(にしがわ)は強酸性(きょうさんせい)で鉄分が多く飲料(いんりょう)に適(てき)さず、200米(メートル)以上も離(はな)れた井戸(いど)へ水を汲(く)みに行ったものである。
 水汲(く)みは、子どもの仕事で、どんなに辛(つら)かったことか、思い出すだけでも寒気(さむけ)がする。特に、冬期(とうき)、井戸(いど)の鉄鎖(てっさ)の冷たさや肩(かた)に食い入る天秤棒(てんびんぼう)の痛(いた)さ、凍(こお)りついた道で足をとられて滑(すべ)り転び、バケツの底(そこ)を抜(ぬ)いて親に怒(おこ)られたことなど、苦(にが)い経験(けいけん)の一つである。川の水も生活用水として大切に扱(あつか)われ水も澄(す)んでいた。
 終戦後間もなく住民(じゅうみん)の熱望(ねつぼう)により、県から資材(しざい)を提供(ていきょう)してもらい、昭和24年春70戸(こ)程(ほど)で簡易(かんい)水道を引き、蛇口(じゃぐち)から出る水を手で受けとめた感動は一生忘(わす)れられない。
 それを契機(けいき)に「全村に上水道を」の機運(きうん)が高まり、八幡上水道の完成をみたのである。
 記念碑(きねんひ *1)の表書(おもてがき)は、驥山(きざん)書、下に佐藤春夫の「月雪花の好き里は、祖先(そせん)の恵(めぐ)み手にうけて、朝な夕なに汲(く)む人よ、はらわたいよよ清からん。」の詩がある。裏(うら)の建設誌(けんせつし)には、「昭和28年許可(きょか)を受く、29年本管の総延長(そうえんちょう)2万7百米(メートル)各家庭引き込(こ)み2万2千米(メートル)配水池10、消火栓(しょうかせん)152基(き)の整備(せいび)を完了(かんりょう)し11月全村歓呼(かんこ)の裡(うち)に待望(たいぼう)の通水式を挙(あ)げ沈澱池(ちんでんち)の整備(せいび)を遂(と)げ総工費(そうこうひ)5900万円をもって30年9月完工(かんこう)の運(はこ)びとなる・・・。(以下略(りゃく)」。この碑(ひ)を仰(あお)ぎ見て、先人(せんじん)の偉業(いぎょう)に感謝(かんしゃ)をするとともに、尊(とうと)い水を大切に使わなければならないと思う。
 ところが、当時使い切れない位(くらい)あった水量が、生活様式が変わったり、団地等で戸数(こすう)が増(ふ)えるにつれて足りなくなり、現在(げんざい)年間18万トンもの県水(けんすい)を補給(ほきゅう)してもらっている。
 子どもの頃(ころ)、宮川とともに育った私たち、川の水は澄(す)み、金魚草が流れにまかせてうねり、素足(すあし)で入って魚をつかみ、貝やカニを取った。たくさんの蛍(ほたる)の乱舞(らんぶ)に目を輝(かがや)かせ、よしきりやひばりのさえずりに、季節の移(うつ)り変(か)わりを感じ取った昔、それも今は、夢幻(むげん;ゆめまぼろし)の如(ごと)く消え失(う)せその姿(すがた)なく、隔世(かくせい)の感がする。コンクリートで4米(メートル)もかさあげをし、魚もろくにおらず雑排水(ざっぱいすい)を流す死に川、近年、”自然(しぜん)を大切に”という掛(か)け声が聞こえてくるが、なぜか空(むな)しく聞こえる、今日此の頃(このごろ)である。

 
 *1 この記念碑は武水別神社境内(けいだい)の入口にある(クリック)