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〒387-0021 長野県千曲市大字稲荷山1360


 学校紹介

昭和47年4月から稲荷山小学校と桑原小学校が一緒になるにあたり、学校の名前を一般の人から募集しました。
その結果1位「西小学校」 2位「治田小学校」 3位「治田ケ丘小学校」 4位「川西小学校」 5位「稲桑小学校」の名前が出ました。
そこで、「川西小学校」と「治田小学校」の二つについてもう一度アンケートを取り、多い方を校名とすることになりました。
その結果、「治田小学校」という名前を希望する人が多く、採用され議会に提出され、正式に決定しました。
では、治田という名前は?
それは小さな開墾地という意味で、千年以上もの昔から、稲荷山と桑原のこの一体を治田郷、治田の郷と呼んでいました。
歴史的にも由緒ある名前で、田んぼや畑をたくさん作っていたようです。
ですから、治田小学校は、歴史的にも由緒ある立派な名前であります。
 【治田小学校開校30周年記念誌より】


  <校章ができるまで>
昭和51年8月、校章制定のための専門委員会より、小学校4年生以上と地域の皆さんを対象に校章の図案募集要項を全戸に配布しました。
12月、応募作品より校章の候補が審議され、優秀作品が決定されました。この作品をもとに、上八日団地の工業デザイナー堀内氏にデザイン化を依頼し、現在の校章が誕生しました。



 
   JASRAC許諾番号:E1609123276
<校歌ができるまで> 
稲荷山小学校と桑原小学校が統合し、治田小学校となってから、今まで歌い継がれていた両校の校歌が歌われなくなりました。
そこで、儀式や集会では「ぼくらはみんな生きている 生きているから・・・」と『手のひらを太陽に』がよく歌われていました。

統合1年目も終わりに近い3学期に、本校職員であった多羅沢一郎先生作詞、根岸きよ子先生作曲によって、『治田小学校子どもの歌』が誕生し、今日まで校歌に準じる歌として歌われるようになりました。(この歌は、現在「児童会の歌」として、歌い継がれています。)
統合5周年を迎えた年、記念事業の一つとして校歌・校章が制定させることになりました。
校歌制定のための専門委員会で研究・協議を重ね、「童謡に心暖まる作品が多い」まど・みちお氏に作詞を、「(当時)新人作曲家で形にはまらない作品が多い」飯沼信義氏に作曲を依頼することになり、快諾をいただきました。
こうして昭和52年7月、「学校の歴史と共に永く子どもたちが、生き生きと歌い続けていく命のある曲や詩を」との願いが、現在の校歌という形で結実しました。



 稲荷山小学校   桑原小学校  
明治6年稲荷山小学校 極楽寺に開設。
昭和47年 稲荷山小学校100年の歴史を閉じる。
  明治6年桑原小学校 浄光庵に開設(大田原に支校)。
昭和47年 桑原小学校100年の歴史を閉じる。
 
 昭和47年 稲荷山小学校と桑原小学校が統合され、更埴市立治田小学校が発足。
  治田小学校竣工式を行う。
昭和49年 校舎・体育館の完成およびグランドの造成工事完了。
昭和49年 プールの完成
昭和52年 統合記念事業(校歌・校章・校旗の制定・中庭の造園・治田山の造成等)
昭和56年 開校10周年記念事業(校歌歌碑・天幕等)
平成3年 開校20周年記念事業(記念音楽会・作品展・記念碑等)
平成13年 開校30周年記念事業(記念講演会「有森裕子さん」・記念誌・緞帳等・タイムカプセル)
平成15年 市町村合併による千曲市誕生により、校名が千曲市立治田小学校となる。
平成23年 開校40周年記念事業
 令和3年 開校50周年記念事業 
   



待井亮造「稲荷山の町並み風景を中心に『善光寺街道400年17宿歴史旅画集』の一部44作品展」開催に寄せて

 
開校50周年を迎えた本校では記念式典当日を初日として、標記展覧会を開催。10月6日から12月15日までの約二か月の会期の終盤になりますが、個別懇談会にお越しの際には、ふるさとの景色が描かれた作品をご覧になっていってください。
 本展覧会に寄せて、職員向けの内部資料として令和元年7月8日(月)の校長通信で報告したものを加筆改稿し、展覧会参考資料として今回公開いたしました。地域にある一本の水路、一本の木、一本の道にも歴史があります。本校に関わる、古来から今につながる「道」について考えてみました。

 PDFファイルはこちらから

治田小新築工事地質標本に見る仁和年間の大災害について
 
PDFファイルはこちらから

校長室に掲げられた一枚の水彩画とかかわりのある画家について
 〜 丸山晩霞画伯来校の謎 〜 (2020年8月)
 
 
PDFファイルはこちらから

「更級埴科地方歴史年表」に見る水害史(PDFファイル)

この度の台風19号関連災害にて被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
10月30日に開催されました、第二回学校運営委員会、及び治田型コミュニティースクール推進委員会におきまして 避難所開設時の概要(学校だより10月号)を報告させていただきました。
その際、関連基礎資料として、「更級埴科地方歴史年表に見る水害史」を配布させていただきました。
先人が古代より防災、減災の取り組みを粘り強く重ねてきたことが分かります。
千曲市洪水ハザードマップと合わせて、「ふるさと治田」を深く学ぶ資料にしてほしいと思います。
学校だより11月号においては佐野川支流の荏沢川(いざわがわ)上流の石堰堤(いしえんてい)見学について報告していますので併せてご覧ください。


「稲荷山唱歌」について (2019年8月)
【楽譜】稲荷山唱歌(PDFファイル)

【こちらから曲が聞けます】稲荷山唱歌

本校二階の「資料室」には稲荷山小学校・桑原小学校保存資料があります。地元の方に「稲荷山唱歌」の資料提供を求められましたが、音源となるレコードもテープも、楽譜も見出すことができませんでした。
お応えできない責任を感じて、夏季休業中に資料探索のために長野県立図書館で国立国会図書館も含めて「稲荷山唱歌」の検索をしていただきました。
「稲荷山小唄」は国会図書館にあるようでしたが、「唱歌」の音源・資料はないとのことでした。手掛かりとして、本校にも残されていない「稲荷山小学校創立七十周年記念誌」と「稲荷山四百年の歩み」(以下歩み)を紹介していただきました。

歩みには、「稲荷山八景唱歌」の作者は「稲荷山小学校校長 下崎熊平 作」と記載されています。
下崎熊平は、歩み(昭和49年4月20日発行)P269の歴代小学校長一覧に拠れば、在職期間「明治43年〜大正2年」、稲荷山小学校「第13代」校長です。
本校の「統合 記念誌 更埴市立治田小学校」(昭和52年11月25日発行)のP14に掲載の稲荷山小学校沿革の概要年表中、明治42年11月25日の項に「子守学校付設 稲荷山唱歌制定」の記載があり、歩みP249に「明治43年、稲荷山出身の下崎熊平訓導は引き続き稲荷山の校長となった。」とあることから、訓導として在職期間中に創作して、翌年校長として「唱歌」制定したものと推測をいたしました。
歩みP270には「下崎熊平校長は稲荷山唱歌を作った。今日に於いても歌われている。」の記述があり、同書が編纂された昭和49年(1974年)当時までも歌い継がれていたものと思われます。

肝心の歌がわからないまま、夏休みが明けましたので、二学期始業式にこの音源を探索中である旨の話を児童にし「唱歌を歌えるお爺ちゃんかお婆ちゃんがいたら教えてほしい」とお願いをしました。(学校だよりNo5 8月号)

そうしましたら、早速に担任の先生への連絡ノートを通じて連絡をいただいたり、児童が校長室に直接来室し、おじいちゃんが歌えるので学校に来てくださるという話になったり、探究学習が拡散し、共同的な学びが展開しています。
そもそものこの唱歌探究の依頼者も8月27日に来校し、地元の喫茶にて歌える人を集めて歌っていただき、店のマスターに採譜してもらい前奏、後奏付きのアレンジを施した楽譜を完成させたとのことでした。
期せずして、同日依頼者来校の30分前に、組体操の補助指導で来校中のボランティアさんが、歌えそうな友人に電話をかけて、電話口で唄っていただき「唱歌」を初めて聞いたところでした。
主メロとテンポが掴めたので、コンピュータの作曲ソフトを使って、暫定的な伴奏譜と自動演奏音源を作成しました。別の日には児童のお爺ちゃんが来校し、校長室にて歌ってくださいました。
私がデモで作成した音源を聞いていただき、テンポの補正も出来ました。
原曲が徐々に復活してきましたので、ここにカラオケ音源を公開いたします。

この曲のことを話題にすると、地域の方の中にもいくつか認識の違いがあることが分かってきました。
校長先生「それは、稲荷山小学校の校歌ですよ」と、きっぱりとおっしゃる方もいますし、「いや、校歌は別にあった」とおっしゃる方もおります。「卒業式や入学式にも歌っていた」という方もいます。
いったいどういうことか・・・ どうやら、稲荷山小学校校歌が制定されるまで、「校歌」だった時期があったというのが事実のようです。


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千曲市立治田小学校

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  校長室より
 [令和5年度グランドデザイン]