私たちの住んでいる歴史ある治田。まちを歩くと古くからの文化を伝えるものがたくさんあります。
まちを歩いて、探してみましょう。

稲荷山宿<いなりやまじゅく>
中山道の洗馬宿から分かれて、猿ケ馬馬峠を越え、桑原宿、稲荷山宿に入り、篠ノ井追分宿で北国街道とつながるのが北国西往還。
稲荷山宿は善光寺詣での人々が行き交うこの街道の一番の賑わいを見せ、最盛期には旅籠屋(はたごや)が三十軒もありました。幕末から明治にかけては繭(まゆ)、生糸(きいと)の集散場として一台商業地に発展し、今も待ちのあちこちに白壁の土壁づくりの町屋が立ち並び、往時の繁栄ぶりが偲ばれます。
城小路の井戸 <しろこうじのいど>

佐野川の扇状地の稲荷山では数少ない良質水の1つ。現在は使用されていません。
極楽寺 <ごくらくじ>
天正10年稲荷山城築城の際、城の鬼門除けとして小坂より中町裏へ移転したが、寛永14年(1637)千曲川洪水により流失したため、現在の場所へ移転しました。
鐘楼は、当時のまま移築されたと言われています。
治田小学校の前身の稲荷山学校が開校され、校舎が新築されるまでの間(毎時6年〜7年)、極楽寺の本堂を仮校舎として使用しました。
また、慈教殿は、明治維新より昭和5年まで稲荷山町役場として使用されていました。
稲荷山城址 <いなりやまじょうし>

天正10年三方押の稲荷山城が築城された。出撃の際はここに終結し、「どら」または「法螺貝」の合図で出撃したといわれ、「どら山」とも呼ばれています。
松木本陣 <まつきほんじん>
稲荷山宿の本陣。弘化3年4月24日善光寺地震で焼失しましたが、宿場機能復活のためにいち早く冠木門(かぶきもん)と共に再建されました。
呉服問屋山丹の倉庫 <ごふくどんややまたんのそうこ>
山丹は、明治・大正期には長野県の北信地方有数の呉服商でした。
長雲寺 <ちょううんじ> 本尊・愛染明王座像<ほんぞん・あいぜんみょうおうざぞう>
長雲寺は、天正17年(1589)僧 鎮雅によって現在地に再興されました。
その後の記録が乏しくはっきりとしていませんが、廃寺同様となっていたこの寺に、京都の仁和寺で修行しりょ良言と称していた四国今治藩主久松定時の三男が、久松家と上田藩松平家との縁戚をもとに、住職として迎えられました。
この時、仁和寺の住職 守恕(しゅじょ)より愛染明王像と、本尊の五大明王を賜われ、明治維新までの150年あまり、仁和寺の直末寺として稲荷山をはじめとした近辺の人々の信仰を集めました。
愛染明王は、寛文13年(1673)京都綾小路仏師 久七の作で、醍醐寺に安置されていたもの。国の重要文化財。
五大明王像は、理源大師作で、やはり醍醐寺に安置されていたもの。降三世明王・軍茶利夜叉明王・大威徳明王・金剛夜叉明王は、法橋康寿の作。
木曽義仲鞍掛石 <きそよしなかくらかけいし>
養和元年(1181)横田河原合戦の直前に、木曽義仲がこの石に鞍をかけて小休止したと伝えられています。
舟繋石 <ふねつなぎいし>
舟繋石は、昔はこのあたりまで千曲川になっていたらしいことを、教えてくれます。千曲川をはさんで対する倉科の石杭にも舟繋石があります。
弘化丁未地震稲荷山駅横死人そう冢碑 <そうちょうひ>
弘化4年(1847)3月24日(新暦5月8日)夜10時ころ、マグニチュード7.4、最大震度 7といわれる善光寺地震により、稲荷山は全村倒潰とともに4ヶ所から発生した火事により全村焼失しました。
総人数1612人中、死者は村人182人、旅の人121人、馬3頭の犠牲が記録されています。
上田藩(藩主 松平忠優)は犠牲者の冥福を祈り、この石碑を建て慰霊法要をおこないました。
治田神社・治田公園 <はるたじんじゃ・はるたこうえん>
稲荷山の氏神祭神は治田大神(ハルタノオオカミ)・事代主命(コトシロヌシノカミ)・倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)で、治田神社に祀られています。
治田神社の名前は、上杉景勝が城を築くにあたって称しました。
治田公園は、明治39年の日露戦争において更科郡内の戦死者の霊魂を祀る忠霊殿を建設するために、女池と男池の2つのため池のある広い敷地に桜(ソメイヨシノ)と柳を植えて治田公園と命名されました。
女池は明和2年(1765)、男池は文化5年(1806)に造られました。また桜は、昭和19年に伐採されたため、現在の桜は昭和43年に植えられたものです。
治田公園は、治田小学校の児童の学習や遊びの場として、親しまれています。また、春には桜の名所としても有名です。
稲荷山宿・蔵し館 <いなりやまじゅく・くらしかん>
幕末から明治にかけて生糸輸出の先駆者となった松林源之助の邸を修復・再現したものです。
当時の商家の様式を伝え、民族資料を豊富に展示しています。
飯綱稲荷神社 <いいづないなりじんじゃ>
五穀豊穣(ごこくほうじょう)と商売繁盛(しょうばいはんじょう)の神として祀られています。
ふるさと漫画館 <ふるさとまんがかん>
蔵造り風の建物の漫画館。地元出身の政治漫画の第一人者 近藤日出造の作品を中心に展示してあります。
2階はアニメビデオやマンガ本も閲覧でき、治田小学校のみんなもよく利用しています。
龍洞院 <りゅうとういん>
曹洞宗大源派のお寺。はじめ恕仲禅師が小坂の観音堂に開き、龍燈院と称していた。その後兵火にかかったため、永正元年(1504)桑原左近将監が大陽和尚を招いて現在の場所に建立し、龍洞院と改称しました。現在の本堂は安永元年(1772)に再建されたものです。
紅葉の見所と美しい庭園で知られています。
佐野薬師<さのやくし>

行基菩薩の作、開山の伝承もありますが、仁平年間(1150〜1153)の冥海和尚の医王院建立が開基です。
佐野薬師如来は眼病に霊験あらたかで知られています。
雷火後、お堂は明治41年に再建され、近年大修理が行われています。
佐野山城址<さのやまじょうし>
天文22年、筑北より侵入した武田信玄と、城将塩崎六郎次郎は屋代氏と共に戦っています。
武田氏滅亡後、屋代秀正が上杉景勝に属しながら家康方に内通した天正12年(1584)4月、これに加担した塩崎六郎次郎は佐野山城に立てこもりました。しかし、上杉軍にはかなわず、城を捨てて西山方面に逃げました。
現在は、佐野山城のあった跡や一部土塁のみが残っています。
天満宮<てんまんぐう>

桑原にある天満宮は菅原道真公を祭り、学問の神として崇敬されています。座像1,3m、恵心僧都の作です。桑原氏が古屋の館の離隔に創建し、元禄2年(1689)に現在の場所に移されました。その後、治田神社に合祀、長福寺・長谷寺を経て、昭和50年4月、佐野区・西区の区民のみなさんの浄財によって建てられた新殿に帰座されました。
浄光庵<じょうこうあん>
寛永年間、洞春和尚により開基創建されましたが、元禄3年火災のため廃寺となりました。この間、龍洞院の門寺(かどでら)として元町にあったといいます。明和2年(1765年)龍洞院15世梅峰和尚が現在地の地蔵堂により浄光庵を再興しました。
延命地蔵に大日如来も合わせて祀り、お堂は金毘羅山の琴平社の社殿を移築したものです。
象山桑原記念館<ぞうざんくわばらきねんかん>
旧松代藩士関長昭・長尭親子は佐久間象山の門人。関家の武家屋敷であった館内に象山の書状等の作品・遺品を展示しています。記念館に続いて巡検使門・養蚕記念館・新右衛門屋敷が立ち並びます。
庭園に市保存樹木のモウソウチク・コウヤマキがあり、ツツジ・サツキが見事です。
龍王城址<りゅうぐうじょうし>
武田・織田滅亡後の天正11年(1583年)9月、深志の小笠原貞慶は龍王城を襲いましたが、守将寄与の佐衛門は謀をもって小笠原の大軍をうち破っています。
山城としての遺構はないが、自然の要害の上に湧水池がその裏づけになっています。傍にイチイの神木と水神(石祠)が祭られ、干ばつの夏には雨乞いが行われました。
田原神社<たはらじんじゃ>
鎌倉時代、京都の公家藤原親信が土着して大田原を開き、三島大明神を建立しました。のちに大門の伊豆社と大内沢の箱根社の三社を合併して、現在の場所へ鎮座したといいます。
祭神は山の神の大山祇命(おおやまずみのみこと)と、その子どもの木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と鹿葦津姫命(かあしつひめのみこと)です。本殿は拝殿内にあり、神木の欅作りで天保初年(1835年)の建物です。
不動滝<ふどうたき>
源を真陽(しんぎょ)に発し佐野山城址の南麓を流れる滝ノ沢の佐野川ぞいの岩壁にかかる高さ約14メートルの滝です。水量も多く、北に続く岩場や車橋(くるまんばし)の断崖は石英安山岩で、遊離した石英は高温型石英で飴色をしています。
この滝の上、佐野山城址との中間の路傍に自然石の「山の神」が祀られています。
地蔵堂<じぞうどう>
稲荷山の学校の始まりが極楽寺、桑原が浄光庵、そして大田原は地蔵堂です。学制領布(明治5年)の翌、明治6年桑原村立明善学校の支校として「大田原支校」が発足しました。授業は明治7年1月28日より地蔵堂で始まりました。本校の明善学校は浄光庵の境内に新築されたものですが、明治34年の火災で焼失し、翌35年に今の桑原保育園付近に校舎を新築しました。一方、地蔵堂は明治42年の分教場の新築まで大田原児童の学校として使われていました。
地蔵堂は、秋葉山南麓に130年の風雪に耐え、今も当時の面影を残しており、地域の人たちからは「お堂」と呼ばれています。地蔵子安地蔵であり、例祭日は11月23日。おじょう夜といって、この日は八幡の清浄院の住職が集まった子どもたちに知恵の団子を投げていた。大戦前はにぎわったといいます。
治田小学校大田原分校跡地<はるたしょうがっこうおおたわらぶんこうあとち>
現在の稲荷山公民館大田原分館及び大田原運動広場がその跡地です。明治42年の校舎新築から昭和49年の治田小学校実質統合までのおよそ65年この場所が分教場(戦後は分校)として続きました。
※昭和47年、3月までは「桑原小学校大田原分校」という名称でした。
大田原マレットゴルフ場<おおたわらまれっとごるふじょう>
大田原住民の「地域おこし」の願いのもと、1996年(平成8年)に整備され、レストハウスの手打ちそばの味とともに訪れる人々から親しまれています。
治田町の子どもみこし<はるたまちのこどもみこし>
平成11年治田町区長を中心に建議。「宝くじ助成金」に子どもみこし作成に関する補助金の申請を行う。三年越しの申請活動が実り、平成13年に助成決定、製作。
「江戸みこし」(京みこしに比べて彫りや装飾が簡素)の形式をとっています。
木材はケヤキ。うるし塗り、木彫り、金メッキ等により、制作費約150万円。
みこし本体は約30Kg。治田町育成会で管理しています。